暁のかたる・しす

文筆家/編集者・中川大地のはてなダイアリー移行ブログです。

<5>2000年〜現在 市場の「動物化」と「決断」への誘惑の下で〜時代への適応と対峙〜

 新居昭乃ら第2次の「幻想浮遊系」ポップの成立の背景にあるのは、『エヴァ』以降の深夜放送枠アニメの激増である。かつてはOVAやゲームなどのパッケージ作品内に限られていた歌声が、マニアックに多様化した深夜アニメのテーマ曲(新居の場合はとりわけエンディング曲がほとんど)として地上波に開放されることでより幅広いオタク層の中に新規ファンを開拓しつつ、ソロアーティストとしての活動の基盤になっていったのである。
 深夜アニメの細分化と伸長はまさに、東浩紀が『動物化するポストモダン』で主張した、「虚構の時代」の次のフェーズ「動物の時代」の到来を示す典型的な特徴だとされる。すなわち、人々の消費行動のタコツボ化が浸透しきり、それぞれの欲望の性癖(=「萌え」)に合わせて効率的にそれを満たすコンテンツが、もはやデータベースと呼べるほどの規模であらかじめ存在する、歴史性をなくした厖大な記号パターン(=「萌え要素」)の組み合わせとして構成可能で、多くの消費者はそうした高度消費社会のシステムに馴致されて「動物化」し、自分の既知の消費性癖内における記号パターンの順列組み合わせで充足してしまう、ということ。
 こうした傾向は音楽コンテンツの提供と受容形態でも同様で、近年のデジタル音楽プレイヤーとネット音楽配信ビジネスの伸長により楽曲の1曲単位でのダウンロード販売を可能としているため、レコードやCDといったパッケージ媒体に合わせて複数の楽曲を一連のコンセプトとして企画・制作し、アルバムとして出版するというかたちのミュージシャン活動への大きな阻害的インパクトになることが懸念されている。「幻想浮遊系」アーティストたちは、一般アーティストに比べてとりわけアルバム単位でのコンセプチュアルな世界観づくりをその独自性の淵源としてきたため、この時流は不適合なものと言えるだろう。
 そんな、アルバムという表現の地位が徐々に低下していく音楽界の情勢にあって、2000年発売のオリジナルサードアルバム『降るプラチナ』、翌年のコンセプトアルバム『鉱石ラジオ』、02年のコレクションアルバム『RGB』、04年のオリジナルアルバム『エデン』と、05年発売のベスト盤的コレクションアルバム『sora no uta』と、00年代の新居昭乃ディスコグラフィーは楽曲群の位置づけの違いによって細かく各ディスクのパッケージングを峻別し、データベース化する市場の要請に対応しつつ、「アルバム単位で買ってもらえる」アーティストとしての地位を築き上げてきた例でもあるのあろう。

 一方で、00年代は泥沼の90年代不況への本格的な危機感や9.11テロ以降の世界情勢の不安定化を背景に、90年代以来の諸問題をさらに深刻化させつつも、「痛み」に耐える構造改革や世論の保守化といったかたちで従来以上に「リアリズム」が強調され、メンタルな自閉を厭うて「解決」へのアクションが求められる「決断の時代」でもある。そうした中で『プロジェクトX』に代表されるような高度経済成長懐古や昭和30年代ブームが起こり、かつての日本の一体感や社会目標の共有に範をとろうとする動きも盛んになってゆく。
 そうした状況の進展からすると、「日常の小さな事象を慈しむこと」をテーマに据えた遊佐未森の00年のアルバム『small is beautiful』や翌年の『ホノカ』は、静かな作風ながら時代の気分に対する強い意志的なスタンスであったと言える。さらに02年には、大正〜昭和初期の流行歌をカバーしたコンセプトアルバム『檸檬』をリリース。邦楽界の一部に幾分ナショナリスティックなきらいのある昭和歌謡ブームが起こる中、大正デモクラシー当時の日本人の「幻想」としての異国への憧れを率直に受容した「小さな喫茶店」「アラビアの唄」「蘇州夜曲」といった歌曲を歌手としての自分の原点として歌ってみせるスタンスにもまた、時代から逃げず、逆らわず、さりとて迎合せずといった距離感が垣間みえなくもない。翌03年の『Bougainvillea』では久々に外間隆史を迎えて「ソラミミ時代」を彷彿とさせる厚みのあるポップなサウンドで旧来のファンの支持も獲得しつつ、日常のナチュラルな感覚を歌う近年の詞世界の路線と融合させた意欲作であった。
 また、吉良知彦ZABADAKも、00年の『iKON』、01年の『COLORS』、02年の『SIGNAL』で、再び民族音楽的なテイストやインストゥルメンタルの大曲、プログレ的な物語性・構成性といったかつてのZABADAKらしさを復活させる一方で、90年代に前面化させたロックサウンドや直截に内面を歌う詞世界との調和が図られており、第1次「幻想浮遊系」アーティストたちの間でも“自分”と幻想表現との間で揺れた90年代の惑いにひとつの着地点が見出され始めているようだ。


 以上、「幻想浮遊系」アーティストたちの現況としては、こんなところだろう。
 思春期以来、彼らの音楽を愛聴してきた筆者としては、不況やポストモダン状況へのリバウンドとしていささか性急に求められている「現実」への適応圧力に対し、バブル期・バンドブーム期に登場した彼らがその路線を逡巡しながら歌い奏でてきた「幻想」の内実が、決して逃避的なばかりではなく、現実と批判的な距離をもって対峙する視座として読み解きうることを心強く思う。
 「近代」という環境が成立していく過程で、その受容にともなう実存的なコンフリクトを把捉することで個的な適応や癒しを獲得する行為を「文学」という言葉の範疇とすれば、それをストレートな方法で表現する自然主義のリアリズム文学に対して、前近代的神話や自然などを範にした独自の「律」をもつ架空世界と物語を描く幻想文学という方法は、ある意味そのひとつの前衛だ。ロック・ムーブメントを文学運動になぞらえ、「89年体制下」におけるバンドブームをそんな自然主義文学のメインストリームに喩えるなら、「幻想浮遊系」はまさにそうした、現実を逆照射する前衛的方法としての本義を、その奥底に秘めているはずなのだ。
 その可能性を退廃させることなく聴けるかどうか。それは、高度成長以来の「虚構の時代」以後の世界しか知らない世代が、己の生き様をいかに緊張感をもってカッコ良く、豊かにできるかどうかの試金石でもあるだろう。音楽はまさに、その人の生き様をダイレクトに映し出す文化だ。そして音楽ジャンルそのものに貴賤があるのではなく、聴く人間の生き様こそが、ジャンルの貴賤を決めるのだから。