暁のかたる・しす

文筆家/編集者・中川大地のはてなダイアリー移行ブログです。

【勝負仕事告知】『東京スカイツリー論』(光文社新書)で描いたもの

 校了直後から別仕事で忙殺されロクに内容の告知をする間もありませんでしたが、初めての単著となる『東京スカイツリー論』が発売されました。遅ればせながらですが、ご検討の参考に目次に即して本書の概要を紹介します。

 

東京スカイツリー論 (光文社新書)

東京スカイツリー論 (光文社新書)

 テレビとネットの関係をめぐる情報インフラ政策の大いなる“失敗”の徒花として、ついに開業してしまう東京スカイツリー。3・11後に顕在化した「絆」にはほど遠い日本社会の分断と出口なしの閉塞状況の中で生み出された“本当は要らない子”としての新タワーを、私たちはいかに捉え直し、活用していけばいいのか。
 スカイツリーをめぐる多くの報道や言説が、そうした本質に目を覆って事業者広報の追従ばかりを垂れ流す礼賛や空虚な景気づけか、その単なる裏返しとしてとうの昔にわかりきっている電波利権の指摘を中心にした“他人事”目線での非建設的な批判や揶揄に終始する中、“自分事”として「スカイツリーのできてしまった現実」を引き受けながら、これからの東京と日本の行く先をあらゆる切り口から徹底的に考察。

 明治〜大正の凌雲閣(浅草十二階)が象徴した「文明開化」(前期近代)、戦後昭和〜冷戦後平成の東京タワーが象徴した「高度成長」(モダニズム/後期近代)までの日本近代を更新する、東京スカイツリーが体現する新たな文明パラダイム〈拡張近代〉(オーグメンテッド・モダニティ)とは何か。
 生家からわずか400メートルの場所にスカイツリーを建てられてしまった墨田区向島出身の筆者が、誘致決定以来の7年間のコミット活動をベースに、メディア論、社会政策、建築史、日本史、都市論、地域社会論、人類学などの垣根を超え、ミクロとマクロの視点を往還しながら全方位仕様で展開する、地道かつ壮大な思想/実践書!


【目次】
序章 坂の上のスカイツリー
第1章 インフラ編/東京スカイツリーに背負わされたもの

第2章 タワー編/世界タワー史のなかのスカイツリー

第3章 タウン編/都市と日本史を駆動する「Rising East」

  • 3-1 浅草・日本橋――江戸に受け継がれた史的地層
  • 3-2 銀座・九段坂上――近代建設期における帝都のコスモロジー変動
  • 3-3 新宿・渋谷――昭和に穿たれた葛藤軸
  • 3-4 秋葉原・お台場――「趣都」と「ファスト風土」への二極化
  • 3-5 〈ショッピングモール的公共性〉は〝東〟を再興しうるか

第4章 コミュニケーション編/地元ムーブメントはいかにスカイツリーを〝拡張〟したか

  • 4-1 建設開始までの住民たちのコミット運動(2005〜2007年)
  • 4-2 スカイツリーウォッチャーたちの祝祭(2007〜2010年)
  • 4-3 祭の終わりと街のこれから(2011年〜2012年)

第5章 ビジョン編/スカイツリーから構想する〈拡張近代〉(オーグメンテッド・モダニティ)の暁

  • 5-1 東京スカイツリーがもたらす「建築の大転換」
  • 5-2 〈拡張近代〉型都市へのビジョン 「天空の巨木」から「拡張された森林」へ

 …とまあ、目次を眺めていただければわかる人にはわかるように、各章ごとに異なる文脈の議論の蓄積を土台にした本です。
 序章は、3・11の日の個人的な体験から説き起こし、本書全体の伏線を張り巡らせています。そこでどのようにスカイツリーが立ち現れるのか、ぜひご堪能ください。ちなみにこの章を送付したとき、光文社新書の担当編集である森岡編集長が「バルトの『エッフェル塔』のように、一過性のものではなく、ずっと読み継がれていくようになれば」「編集者としての勘ですが、これは大きな話題を呼びますよ」という感想をくれたのですが、さて、どうなることやら。

 つづく第1章「インフラ編」は、そもそもなぜ東京スカイツリーというテレビ電波塔が建てられたのか、計画の基本的な背景と具体的な経緯を解説。そこから、放送と通信の在り方をめぐる我が国のメディアインフラ行政の問題点を浮き彫りにし、スカイツリーがどのような可能性と不可能性を背負っているかを、社会政策的な観点から明らかにしています。
 ここでは主に鬼木甫氏や池田信夫氏の電波行政論や、さらには村上憲郎氏らの提唱するスマート社会に関する議論のフレームを踏襲していて、脱原発・エネルギー政策にも話が及びました。

 第2章「タワー編」では、エッフェル塔や東京タワーをはじめとする歴代の超高層タワーを追う中で、スカイツリーが何を象徴するのかを建築史的な観点から明らかにする系譜学を展開。本書で最も時間と労力をかけたメインブロックです。
ロラン・バルト『エッフェル塔』を機に築かれていった松浦寿輝氏や細馬宏通氏、酒井隆史氏らのタワー論の脈絡に多くを負いながら、それらを〈タワー的公共性〉という概念によって統一的に把捉する史観を提起しました。
 本章の執筆途中で江戸東京博物館「ザ・タワー〜都市と塔のものがたり〜」展が開催されて、取り扱う話題の被り具合に冷や汗をかいたりしましたが、どうにかその先にいく論を展開できたのではないかと思います。(特にカナダのCNタワーのすごさについて、ここまでアツく語った日本語の文章はないはず…!)

 第3章「タウン編」では、江戸から東京に至る都市開発の歴史的文脈の中で、「Rising East プロジェクト」と名づけられたスカイツリー周辺施設の開発計画がいかなるポテンシャルを抱いているのかを都市論的な観点から探っています。タワー本体について論じた第2章と対をなすもうひとつのメインブロックで、書き進めていくうちに事前にはまったく予期していなかった概念的枠組みが膨らんでいった、自分的な発見の多かった章。
 基本的には吉見俊哉氏の『都市のドラマトゥルギー』以来、北田暁大氏や森川嘉一郎氏、三浦展氏らの積み重ねてきた社会学的な都市論・東京論の系譜をもとに、速水健朗氏らのショッピングモール論を援用して東京スカイツリータウンが押上・業平の都市形成に資するポテンシャルを〈ショッピングモール的公共性〉として吟味しました。が、どちらかというとその前段として展開した日本史的なパースペクティブの方が、本郷和人氏や與那覇潤氏などの史観とも期せずして呼応するかたちになったので、読者に意外な驚きを与える部分になるのではないかというパートです。

 第4章「コミュニケーション編」は、新タワー計画の誘致時点からの住民運動や、スカイツリー建設開始後の祝祭的なファン活動のネットワークなど、事業者外の主体が押し進めた地域ムーブメントの推移を、日本におけるソーシャルメディアの発展と絡めて詳述。筆者自身を含む建設事業主以外の地元の当事者たちが、津田大介氏言うところの「動員の革命」の一種として、いかにスカイツリーをハッキングしていったかを、初めてまとまったかたちで知らしめるルポルタージュです。
 アクティビストとしての私たちが何をどこまでなしえたのかの判断は読者と今後の歴史に委ねたいところですが、墨田区のこれからのコミュニティ再生や他地区の地域活性化に活かしうるケーススタディとして、この章の存在によって本書が放つ異彩にさらに輪がかかったことは、間違いないでしょう。

 第5章「ビジョン編」では、以上すべての現状分析や問題提起を元に、東京スカイツリーの理念性をさらに掘り下げ、日本の未来像をいかに構想すべきかの思想的模索を行っています。ここでは、筆者がかつて『思想地図 vol.4』に寄せた「生命化するトランスモダン」のコア思想を、馴染みの宇野常寛君の用語を拝借してさらに〈拡張近代〉(オーグメンテッド・モダニティ)として発展させ、その道具立てによって新たな思潮の契機としてのスカイツリーのポテンシャルを考えうるかぎり最大限に引き出しました。(いわば、ウルトラマン仮面ライダーを世界各地のタワーに置き換えた、中川版の『リトピー』実践編とでも言うべき感じか?)
 なお、ここでは議論の踏み台として『アースダイバー』や『対称性人類学』、伊東豊雄氏との近著『建築の大転換』など本書の思考法の多くを依拠している中沢新一氏のある残念な言説を僭越ながら批判しつつ、ちょうど同い年の大田俊寛氏などとは多分まるで異なる角度からその超克を試みるものに、結果的になっているはず。

 ともあれ全体として、「スカイツリー論」というタイトルから普通に想定される内容とはまったく別次元の広がりをもった総合性のある本になったのではないかと自負しています。現在の筆者にしかなしえないすべてを込めた処女作として、悔いなく世に問えるものとなりました。
 ご笑覧いただけたら幸いです!