暁のかたる・しす

文筆家/編集者・中川大地のはてなダイアリー移行ブログです。

『パシフィック・リム』が更新する太平洋戦争後の怪獣映画像

辛抱たまらず、隙をついて『パシフィック・リム』みちゃいました。諸々の造形や動かし方のフェティッシュに関する「わかってる」感やおれたちの感性との通じ度がどれだけ凄いか、あるいは物足りないかについては、今更こちとらごときが世評に付け加えることはないけれども…。

個人的に最も感嘆したのは、こういう映画に「パシフィック・リム(太平洋沿岸)」なんてタイトルが与えられてることのとてつもない批評性ですね。つまり日本的な怪獣特撮&ロボットアニメとハリウッドVFXの想像力の融合を核に、これをローカルな文脈性を超えた環太平洋の感性だと豪語してみせた点。

国内的な特撮評論の文脈だと、どうしても怪獣なるものに対しては、太平洋を挟んだ敗戦のトラウマ意識に結びついたワビサビを解するか否かを評価軸とするハリウッド的な野蛮への屈折した見下しが先立ちがち。けど本作は、基本的にはその怨念を受け止めた上で、非常に自覚的に普遍化しようとしてる印象です。

本作での怪獣の描き方を、造形面や演出面の達成を認めつつも、人類の「外敵」としてアッケラカンと排除対象にしてる点に浅薄さを感じ、「所詮ハリウッドか」と残念視する見方もあるだろう。
けど実はこれは逆で、戦後の非対称な史的因縁を乗り越えうる人類側の結束の供儀として人類内の怨念を外側に括り出し、これを叩くことで内的な対称性を取り戻さんとする世界大の藁人形として、怪獣なるものが捉え直されている。異界への道が宇宙ではなく海の底だという世界観からも明らかですが。

執拗に強調される原子力や被曝のモチーフは『ゴジラ』直系の歴史性を受け継ぎつつ、原爆を落とした側と落とされた側の別のない人類共通の課題として、コントロール困難だけど飼い慣らすべき必要悪という描き方がなされてる。このへん完全に戦後型から3.11後型の描写になってますね。。

本作がそういう視点を獲得したのは、ギレルモ監督がアメリカ人でも日本人でもなく、メキシコ人という調停的な立場にあったことも小さくない気がします。さて、ここまでされてしまうと、おれたち日本人はこの先どんな普遍の表現を打ち返していけばいいか。真剣に考えないといけない宿題になりましたね…。