暁のかたる・しす

文筆家/編集者・中川大地のはてなダイアリー移行ブログです。

17日土曜日から、新イベント[オトクイ-音食-]始動!

qyl010212007-03-15

え〜、もう明後日のことになってしまいましたが、千石空房でのSOSUKEさんの新イベントで僕も回させていただきます…!
2時間40分も、アーティストフリーで流すのは初めてなのでドキドキですが、乏しいレパートリーひっかき集めて楽しみますよ…!!
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[オトクイ-音食-000:試運転]
築80年の古民家を活かした画期的なイベント空間「Artist Space千石空房」にて、アニメ・ゲーム音楽/民族音楽ワールドミュージック寄り楽曲/電子系音楽/宗教歌・密教系音源などをメインに、ホラー、 SF、ファンタジーといった、エスニックであったり未来的であったりと非日常的なテーマの曲がてんこ盛りの、まったりとした音楽イベントが始動します!
DJ電波(SOUSUKE)が手がけるクラブイベント[DEMP@HOLIC](http://www.lost-e.com/dempaholic/)からスピンアウトし、毎月第3土曜日に開催するこのシリーズは、毎回特定のアーティストやカテゴリー、テーマをとりあげて特集していきます。
3/17(土)開催の[オトクイ-音食-000:試運転]では、主催のDJ電波(SOUSUKE)と、幻想浮遊系http://d.hatena.ne.jp/keyword/%b8%b8%c1%db%c9%e2%cd%b7%b7%cf)ラウンジイベント[macoron]を手がけてきた千石空房スタッフのD-Nak.(中川大地)が、それぞれのレパートリーを気ままに試しながら、イベントのベース・ポリシーを模索。
そして、お互いの音楽歴やバックグラウンドなどを語り合いながら、[DEMP@HOLIC][オトクイ]でかける「この路線」の音楽たちに与えるオリジナルのジャンル名を、会場の皆さんと一緒に決めていく【トーク企画:ジャンル名をつけよう!】を設ける予定です。
もしかすると新たな音楽ムーブメントになるかもしれない!?記念すべき瞬間に是非お立ち会いください!!
(参考:http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14900469&comm_id=52409

■日時/3月17日 15:00-21:00
■場所/Artist Space 千石空房(都営三田線千石駅から徒歩7分)
■入場料/1000円
■DJ
 DJ電波(SOSUKE)
 D-Nak.(中川大地)
■タイムテーブル(予定)
 15:00〜16:20 DJ電波
 16:20〜17:40 D-Nak.
 17:40〜18:20 【トーク企画:ジャンル名をつけよう!】
 18:20〜19:40 D-Nak.
 19:40〜21:00 DJ電波
■音源レパートリー
 平沢進/(ソロアルバム及び下記作品サントラなど)ベルセルク千年女優妄想代理人、パプリカ、etc.../P-model/中野テルヲ/核P-model/旬レーベル関連/菅野よう子/(下記作品サントラなど)/攻殻機動隊S.A.C.、地球少女アルジュナ創聖のアクエリオンターンエーガンダムブレンパワード天空のエスカフローネ、etc.../坂本真綾/AKINO/ORIGA/ALI PROJECT/Avenger.hack//roots、etc.../梶浦由記/Fiction Junction YUUKA/See-Saw/石川智晶/舞/RAM RIDER/新居昭乃/Goddess in the Morning/柚楽弥衣/SORMA/島みやえい子/KOTOKO/川田まみ/I've関連/妙/eufonius/refio/riya/bermei.inazawa/大嶋啓之/霜月はるか/茶太/片霧烈火/Barbarian On The Groove/kukui/志方あきこ/Suara/asha/solua/ロッキーチャック/書上奈朋子/turan./ジ・エキセントリック・オペラ/ゆいこ/KOKIA/VitaNova/上野洋子/濱田マリ/葛生千夏/彩月/saju/yae/坂本美雨/川井憲次/イノセンスめざめの方舟.../KUNIAKI HAISHIMA/SPRIGGAN、催眠、世にも奇妙な物語、etc.../Perfume/cupsule/井上麻里奈/Q;indivi/及川リン/JOBUTSU PROJECT/おおたか静流/青い花(A-0187)/SaGa/河井英里/菅井えり/Theloniousmonkees/Angela/福岡ユタカ/GOMA/ルルティア/朝崎郁恵/RIKKI/YMCK/A Hundred Birds/DEEP FOREST/Dao Dezi/Anggun/STONE AGE/Denez Prigent/Enigma/Enigmatic Obsession/Jens Gad/Achillea/Ivan Kupala/Hevia/DELERIUM/Conjure one/poe/Balligomingo/PRAISE/Miriam Stockley/Sleep Thief/Solar Twins/AEREDA/Lumin/VAS/Bliss/E.S.Posthumus/AFRO CELT SOUND SYSTEM/Jocelyn Pook/B-Tribe/Nusrat Fateh Ali  Khan/IKARUS/Waterbone/Ekova/Amanaska/QNTAL/郭英男/Samingad/Varttina/GARMARNA/SainkhoNamtchylak/Angelit/Mandalay/Nicola Hitchcock/Her Space Holiday/frou frou/Kila/JADRANKA/MARTA SEBESTYEN.../ブルガリアンヴォイス、ガムランバグパイプケルト系...

 遊佐未森/ZABADAK/鈴木祥子/Nav Katze/谷山浩子/久保田早紀/Kirche/みとせのりこ/KARAK/村上ユカ/本間哲子/LOVE, PEACE & TRANCE/あがた森魚/矢野顕子/大貫妙子/椛田早紀/光田康典/植松伸夫/久石譲/手嶌葵/Lia/Gabriela Robin/瀬木貴将/藤原道山/和完/芸能山城組/鬼太鼓座/鼓動/木下伸市/LOREN&MASH/Enya/Adiemas/Mike Oldfield/Kate Bush/Yama Sali/Tirta Sali/Quartette Slavei/

今年は遊佐未森につづき、鈴木祥子イベントも決行!

お正月休みも明けましてお疲れさまです。

さてさて、今月は「幻想浮遊系」アーティストの異端児……否、本来の資質はちっとも幻想でも浮遊でもないのに、80年代末のエピックソニーによる、ナイーブな文化系優等生を狙った「叙情ロック」路線での売り出しを強いられたため、遊佐未森とワンセットにされてしばらく幻想浮遊系的受容もされた孤高の女性ソフト・ロッカー、鈴木祥子のオンリーDJイベントを開催します!


鈴木祥子CAFE at 千石空房

mixi鈴木祥子コミュでの呼びかけ(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=9465456&comm_id=2881&page=all)から始まった、「店内の音楽を『鈴木祥子』のみにする」貸切DJカフェイベントを開催します!

エピックソニー時代、ワーナーミュージック時代、インディーズ等、「ミュージシャンズ・ミュージシャン」としてJ-POPシーンに唯一無二の存在感をしめす祥子さんの多彩で味わい深い音楽世界を、まる1日たっぷり堪能し、心ゆくまで語り合いましょう。
もしかすると、ファン注目の過去の音楽番組出演のレア映像や音源が登場する…やも!?

会場の「Artist Space 千石空房」は、築80年の長屋古民家を有志で改装した、ハンドメイドギャラリーカフェ。鈴木祥子の楽曲にぴったりな雰囲気の、落ち着きとポップの同居する憩いの空間での喫茶もお楽しみください。

Date■■■
1月21日(日) 15:00〜21:00

Place■■■
Artist Space 千石空房

DJ■■■
スマイリー
大輔
D-Nak.(中川大地)
KaTZ

charge(予定)■■■
700円+ワンオーダー

<5>2000年〜現在 市場の「動物化」と「決断」への誘惑の下で〜時代への適応と対峙〜

 新居昭乃ら第2次の「幻想浮遊系」ポップの成立の背景にあるのは、『エヴァ』以降の深夜放送枠アニメの激増である。かつてはOVAやゲームなどのパッケージ作品内に限られていた歌声が、マニアックに多様化した深夜アニメのテーマ曲(新居の場合はとりわけエンディング曲がほとんど)として地上波に開放されることでより幅広いオタク層の中に新規ファンを開拓しつつ、ソロアーティストとしての活動の基盤になっていったのである。
 深夜アニメの細分化と伸長はまさに、東浩紀が『動物化するポストモダン』で主張した、「虚構の時代」の次のフェーズ「動物の時代」の到来を示す典型的な特徴だとされる。すなわち、人々の消費行動のタコツボ化が浸透しきり、それぞれの欲望の性癖(=「萌え」)に合わせて効率的にそれを満たすコンテンツが、もはやデータベースと呼べるほどの規模であらかじめ存在する、歴史性をなくした厖大な記号パターン(=「萌え要素」)の組み合わせとして構成可能で、多くの消費者はそうした高度消費社会のシステムに馴致されて「動物化」し、自分の既知の消費性癖内における記号パターンの順列組み合わせで充足してしまう、ということ。
 こうした傾向は音楽コンテンツの提供と受容形態でも同様で、近年のデジタル音楽プレイヤーとネット音楽配信ビジネスの伸長により楽曲の1曲単位でのダウンロード販売を可能としているため、レコードやCDといったパッケージ媒体に合わせて複数の楽曲を一連のコンセプトとして企画・制作し、アルバムとして出版するというかたちのミュージシャン活動への大きな阻害的インパクトになることが懸念されている。「幻想浮遊系」アーティストたちは、一般アーティストに比べてとりわけアルバム単位でのコンセプチュアルな世界観づくりをその独自性の淵源としてきたため、この時流は不適合なものと言えるだろう。
 そんな、アルバムという表現の地位が徐々に低下していく音楽界の情勢にあって、2000年発売のオリジナルサードアルバム『降るプラチナ』、翌年のコンセプトアルバム『鉱石ラジオ』、02年のコレクションアルバム『RGB』、04年のオリジナルアルバム『エデン』と、05年発売のベスト盤的コレクションアルバム『sora no uta』と、00年代の新居昭乃ディスコグラフィーは楽曲群の位置づけの違いによって細かく各ディスクのパッケージングを峻別し、データベース化する市場の要請に対応しつつ、「アルバム単位で買ってもらえる」アーティストとしての地位を築き上げてきた例でもあるのあろう。

 一方で、00年代は泥沼の90年代不況への本格的な危機感や9.11テロ以降の世界情勢の不安定化を背景に、90年代以来の諸問題をさらに深刻化させつつも、「痛み」に耐える構造改革や世論の保守化といったかたちで従来以上に「リアリズム」が強調され、メンタルな自閉を厭うて「解決」へのアクションが求められる「決断の時代」でもある。そうした中で『プロジェクトX』に代表されるような高度経済成長懐古や昭和30年代ブームが起こり、かつての日本の一体感や社会目標の共有に範をとろうとする動きも盛んになってゆく。
 そうした状況の進展からすると、「日常の小さな事象を慈しむこと」をテーマに据えた遊佐未森の00年のアルバム『small is beautiful』や翌年の『ホノカ』は、静かな作風ながら時代の気分に対する強い意志的なスタンスであったと言える。さらに02年には、大正〜昭和初期の流行歌をカバーしたコンセプトアルバム『檸檬』をリリース。邦楽界の一部に幾分ナショナリスティックなきらいのある昭和歌謡ブームが起こる中、大正デモクラシー当時の日本人の「幻想」としての異国への憧れを率直に受容した「小さな喫茶店」「アラビアの唄」「蘇州夜曲」といった歌曲を歌手としての自分の原点として歌ってみせるスタンスにもまた、時代から逃げず、逆らわず、さりとて迎合せずといった距離感が垣間みえなくもない。翌03年の『Bougainvillea』では久々に外間隆史を迎えて「ソラミミ時代」を彷彿とさせる厚みのあるポップなサウンドで旧来のファンの支持も獲得しつつ、日常のナチュラルな感覚を歌う近年の詞世界の路線と融合させた意欲作であった。
 また、吉良知彦ZABADAKも、00年の『iKON』、01年の『COLORS』、02年の『SIGNAL』で、再び民族音楽的なテイストやインストゥルメンタルの大曲、プログレ的な物語性・構成性といったかつてのZABADAKらしさを復活させる一方で、90年代に前面化させたロックサウンドや直截に内面を歌う詞世界との調和が図られており、第1次「幻想浮遊系」アーティストたちの間でも“自分”と幻想表現との間で揺れた90年代の惑いにひとつの着地点が見出され始めているようだ。


 以上、「幻想浮遊系」アーティストたちの現況としては、こんなところだろう。
 思春期以来、彼らの音楽を愛聴してきた筆者としては、不況やポストモダン状況へのリバウンドとしていささか性急に求められている「現実」への適応圧力に対し、バブル期・バンドブーム期に登場した彼らがその路線を逡巡しながら歌い奏でてきた「幻想」の内実が、決して逃避的なばかりではなく、現実と批判的な距離をもって対峙する視座として読み解きうることを心強く思う。
 「近代」という環境が成立していく過程で、その受容にともなう実存的なコンフリクトを把捉することで個的な適応や癒しを獲得する行為を「文学」という言葉の範疇とすれば、それをストレートな方法で表現する自然主義のリアリズム文学に対して、前近代的神話や自然などを範にした独自の「律」をもつ架空世界と物語を描く幻想文学という方法は、ある意味そのひとつの前衛だ。ロック・ムーブメントを文学運動になぞらえ、「89年体制下」におけるバンドブームをそんな自然主義文学のメインストリームに喩えるなら、「幻想浮遊系」はまさにそうした、現実を逆照射する前衛的方法としての本義を、その奥底に秘めているはずなのだ。
 その可能性を退廃させることなく聴けるかどうか。それは、高度成長以来の「虚構の時代」以後の世界しか知らない世代が、己の生き様をいかに緊張感をもってカッコ良く、豊かにできるかどうかの試金石でもあるだろう。音楽はまさに、その人の生き様をダイレクトに映し出す文化だ。そして音楽ジャンルそのものに貴賤があるのではなく、聴く人間の生き様こそが、ジャンルの貴賤を決めるのだから。

<4>1995年〜1999年 デフレ不況と“自分”の逆襲〜「メンヘラー」的傾向とそれぞれの見出した「現実」〜

 強固なイメージ喚起力をもつ声質や楽曲で「幻想浮遊系」という傾向性をJ-POPシーンの片隅に打ち立てたコア歌手たちは、しかし90年代が下るにつれてその音楽世界を「現実」化させていった。
 90年代の後半といえば、『新世紀エヴァンゲリオン』がさまざまな要因によって時代の空気とシンクロし同時代のありとあらゆる文化ジャンルに諸影響を及ぼしていたが、その「大人になれずに現実に傷つく自分」のエキセントリックな内面表現にも広範な共感が集まっていたおり。
 J-POPシーンにも川本真琴coccoJungle Smileといった「痛々しい自分」の内面を過剰に赤裸々に表現する「メンヘラー」的傾向の歌曲を歌うアーティストが登場し、デフレ不況や14歳の少年による猟奇殺人事件といった「自意識過剰の90年代」の不安な空気が蔓延するのと、「幻想浮遊系」アーティストたちの変化も無縁ではなかったのである。

 その変化がもっともストレートかつ顕著に出たのが鈴木祥子で、もともとエモーショナルに揺れまどう内面性を持てあましながら、おそらくマーケティング戦略などの外的都合で穏やかな「幻想浮遊系」の殻に押し込めていた“自分”が、先述の『SNAPSHOTS』や97年発売の同傾向の次作『Candy Apple Red』で遅ればせながらにストレートな表出を始めたという感がある。この傾向が頂点に達したのが翌98年の『私小説』で、タイトル通り前作よりいっそう生々しく女としての“自分”を俎上に上げる度合いを高めた作品と言える。「完全な愛」などの濃厚で不透明な音づくりと重く引きずるような歌い方を聴きこむと、初期作品で外界の現実風景を淡い透明感ある水彩画のように心象化していたのと同質のまなざしを自らの内面に向けたことの、必然的な帰結ではないかという気もしてくる。
 さまざまな趣向を実験的に試みてきた遊佐未森は、97年の『ロカ』および東芝EMIに移籍した98年の『Echo』で、『水色』以来ふたたびNight Noiseが参加し、アイリッシュテイストのポップをより昇華・発展させ、自分のものにしている。「ロカ」「タペストリー」といった伸びやかなスケール感ある曲群と、「あけび」「ミント」のような身辺の小事をスロー・メロディで絵日記風に描くものの二群を作風として定着させつつ、初期のコスプレ感にあふれた幻想世界とは異なるナチュラルな表現世界を確立していく。このナチュラル・アイリッシュ路線の土台に乗りながら、幾分か「メンヘラー」的な不安への踏み込みが垣間みえるのが99年の『庭』で、その内省的な詞曲に遊佐自身が健康の問題で歌手生命に不安を感じたことが反映されていると指摘する声もある。
 また、ZABADAKも97年の『LiFE』で個人的な生への賛歌をストレートに歌うロック路線を、98年の『はちみつ白書』で「クマのプーさん」を題材にした企画路線に取り組むが、かつての独自世界を構築する「ZABADAKらしさ」の求心力はますます低下してゆく。だが、この時期の吉良知彦上野洋子はそれぞれ他アーティストとのユニット・コラボや新人発掘、オムニバスへの参加、アニメやゲームの主題歌・サウンドトラックへの楽曲提供といった「他人の幻想世界」の構築に積極的に協力することによって人脈の結節点となり、バイオスフィアレーベルを中心に大きな「ZABADAKファミリー」を形成して次代の「幻想浮遊系」アーティストの裾野を拡げていったと言えるだろう。

 そうしたZABADAK人脈の一人として、90年代後半になって大きな展開をみせたのが新居昭乃である。デビューアルバム以後はソロアーティストとして自己の世界を築くことではなく、90年代前半は『ぼくの地球を守って』『ロードス島戦記』『風の大陸』などの和製ファンタジー系アニメ・ゲームのサントラやイメージアルバム、他アーティスト作品やオムニバス版への参加といった裏方仕事に費やしてきたのが彼女だったが、97年にそれらの提供曲を集めたコレクション・アルバム『空の森』をリリースしたのをきっかけに、ソロ活動を再開することになる。同じ年に出た実に11年ぶりのオリジナルセカンドアルバム『そらの庭』は、「現実化」ないしポップ離れした遊佐・ZABADAK空位を一気に埋めるスケール感と独自世界の構築性を持ちながら、両者にはないどこか儚げで温度の低い退廃的な声質・唱法とダークさを秘めた詞世界を特徴としていた。それは「セカイ系」が勃興していくこの時代なりの新たな「幻想浮遊系」の求心力あるスタイルを示してみせたのである。
 そしてソロアーティストとしての新居を中心に、『マクロスプラス』『カウボーイ・ビバップ』で作家性の強いアニメサントラの作曲家として頭角を現してきた菅野よう子や、キングレコードのベタな声優アイドル路線に対する、ビクター所属の本格アーティスト志向の声優歌手という打ち出しの坂本真綾らが、人脈的にもファン層的にも同系統をなす一群となり、タコツボ化の進行してゆくオタク市場の一角に生存圏のひとつのコアを確立することになる。

<3>1993年〜1996年 「93年体制」の到来〜自己完結的世界の拡散・離脱・ルーツ探索〜

 「93年体制」というのは、やはり佐藤賢二が指摘した、ポストバブルの消費低迷で内に籠もって「癒し」を求めたりする辛気くさい風潮傾向のこと。先の見えない不景気に95年に立て続けに起きた阪神大震災オウム真理教のテロが拍車をかけ、人々の世紀末的な閉塞感がさらに煽られた。
 「89年体制」下でかつてのトレンディドラマに代わりヒットした純愛ドラマは、野島伸司などの登場で今度は極端な展開で人間関係をこじらせる悲喜劇を描くエキセントリックなサイコドラマなどに置き換わりはじめ、J-POP(という邦楽シーンの呼びならわし方自体もこの頃の登場である)のヒットチャートはどきつい単調なユーロビートでムリヤリ現実遮断して盛り上がるかのような小室系のアーティストたちに占められる。
 もはや諸文化が世代や階層を超越するオーラを失い、メインもサブもなく単に多様化した消費財のひとつとしてしか扱われえなくなるなかで人々の趣味はますますタコツボ化、一定の嗜好傾向を「〜系」と横並びに括って他者や自分を微細なカタログ枠組みに分類する手つきそのものも、この体制下の産物だ。

 まさに今そういう手つきにおいて「幻想浮遊系」と命名し括っている遊佐・鈴木・ZABADAKらがこの時期に一斉に音楽的な変化を試みているのも、おのずとそうしたマーケティング的なラベリングを強いる「93年体制」を息苦しく感ずる意志が、彼女たち自身の転機として生まれたからであろうか。
 遊佐未森の93年のアルバム『momoism』はほとんどの詞曲を遊佐自身が創り、それまでの空想ファンタジー的なソフト・ロックから、動植物や風景や童話に材を採って心情をつづる欧風の花鳥風月詩のような作風に一変。つづく94年にもアイルランドのNight Noiseをバックに迎え、同様の題材傾向をアイリッシュサウンドに乗せたミニアルバム『水色』を発売し、従来作のファンを大いに戸惑わせる。
 そうした実験的模索の経たのちの『アルヒハレノヒ』は、打ち込み主体の躍動的なソフト・ロックに再度戻りながらも南国楽園的な雰囲気やアンビエント調の要素を取り入れて確かに初期とははっきり異なる趣向を打ち出し、確かに当時の派手なプロモーションのアオリ通りに「遊佐未森、新境地」をみせた。
 鈴木祥子もまた同じ年、自身の音楽的ルーツとして愛してきた60〜70年代のアメリカン・オールディーズに回帰するかのように、バート・バカラックの楽曲をカバーしたミニアルバム『SHOKO SUZUKI SINGS BACHARACH & DAVID』をリリース。翌95年には『SNAPSHOTS』でがらりとコケティッシュなロックシンガーに化けてみせ、もはや「幻想浮遊系」とは呼びづらい赤裸々な心情表出を前面に出してくる。
 さらに翌96年の遊佐のアルバム『アカシア』では、スピッツの「野生のチューリップ」をカバーするなど、「普通のJ-POPアーティスト」への接近はますます著しくなった。

 一方で「のれんわけ」後のZABADAKは、吉良知彦が毎回ゲストアーティストとのセッションでアルバム制作をするユニットとなる。新居昭乃も参加した94年の『音』、全アルバム中最もビートロック・テイストの濃い95年の『SOMETHING IN THE AIR』、宮沢賢治の童話をモチーフにした96年の『光降る朝』と、様々な実験を試みつつ全体的にはロック色の強い音楽傾向に向かっていったと言える。
 反対に上野洋子はヨーロッパ古楽ブルガリアンヴォイスなどの民族音楽によりコアに傾倒してゆく。ZABADAK脱退直後の93年の『VOICES』は、意味のある詞を排除してポップに背を向け、多重録音コーラスによるボイスパフォーマンスの可能性を追求する実験音楽といった風合いのアルバムだった。また、95年には同様の関心をもつミュージシャンたちと意気投合したコンセプト・ユニットVita Novaに参加し「古楽ポップ」なる表現に挑む。このユニットで同時リリースされた複数のアルバムのうち、創作民謡集とでもいうべき『Laulu』には遊佐未森も参加、珍しい遊佐と上野の共演も実現している。

 こうして、それぞれの路線転換により、90年代中盤にはもはや求心力あるポップな「幻想浮遊系」のコアはほとんど解体しつつあったと言え、筆者を含め彼らの音楽を同傾向の興味で聴いていた少なからぬファンが脱落していったのであった。

<2>1990年〜1993年 「89年体制」というファンタジー〜カスタム幻想表現の爛熟〜

 そうして到来した擬似社会派的な時代の雰囲気のことを、佐藤賢二は「89年体制」と呼んだ。それはまず冷戦体制に守られた欺瞞的な平和の元で未曾有の豊かさを、他を一切顧慮することなく享受することのできた80年代へのリバウンドとしての後ろめたさであり、ソ連の崩壊や湾岸戦争などで日本の置かれたマクロな大前提が変わってしまったことへの頭で考えた危機意識と、いまだバブル経済の渦中で繁栄をむさぼっている自分たちの実態との奇妙なギャップに戸惑う浮き足立った振る舞いのことであった。
 技術や音楽史に鑑みての位置づけなどは二の次で赤裸々に「個性」を表現しさえすればよしという風潮とともにあったバンドブームが一瞬の隆盛を誇り、メジャー音楽シーンではKANや大事MANブラザーズの露骨な前向きソングや、ZARD大黒摩季らの漠然とした人生応援歌のヒネリのない素朴さが受けたのも、そんな時代性のあらわれと言える。

 メジャーとマイナーの中間にいる「幻想浮遊系」アーティストたちの黄金期もまた、何故かこの時期にぴったりと重なってくる。当時のEPICソニーの女性アーティスト陣は百花繚乱で、90年発売の遊佐未森の4枚目のアルバム『HOPE』はもっとも多くのファンを獲得した作品といわれる。『空耳の丘』『ハルモニオデオン』から引き続く「ソラミミ3部作」を締めくくる外間ライトファンタジー作風の集大成で、収録曲「夏草の線路」は今でもファンのオールタイムベストナンバーに挙げられることが多い。コミケや『ファンロード』の「歌うたい特集」などで彼女の名が人気カテゴリーとして目立ってくるのもこの頃だ。
 同じく90年発売で、「満ち潮の夜」のような三拍子のヨーロッパ古楽調の曲や、文明論的スケールでエコロジカルなテーマを歌い上げた「遠い音楽」「harvest rain」の二大曲を擁するZABADAKの『遠い音楽』もまた、完成度において彼らの最高傑作との呼び声高い。
 鈴木祥子の『Hourglasss』も透明感ある打ち込みの音づくりを主体に、静謐な叙景スタイルで切々と心象をつづる作風をますます洗練させ、やはり統一感ある完成度の高さを評価される作品に仕上がっている。

 ただ、それぞれ楽曲世界を高度に完成させた後のアーティストたちは、あまり長くその世界イメージを保持しようとはしなかった。
 遊佐は91年の『モザイク』では徐々に外間隆史色を減らし、自身の作曲による20分以上の組曲に挑むなどの実験を始める。また92年に初のベストアルバム『桃と耳』を編み、音楽活動に区切りをつけた。
 鈴木祥子も同じく92年にベスト版『harvest』を出したのち、93年の『Radio Genic』をそれまでの方向性の集大成的な作品として送り出す。と同時に、前作に比べロック的なギターサウンドの主張が増し、曲調の温度が徐々に高まってきているあたりに次からの展開への萌芽を見出せる。同じく過渡的な性格をもつ遊佐の『モザイク』に似た位置づけの作品が、鈴木ではベスト盤の後に出た格好だ。
 『遠い音楽』で頂点に達した吉良・上野コンビのZABADAKは、91年の次作『私は羊』でよりポピュラー寄りの曲づくりを、新居昭乃も「アジアの花」を提供した93年の『桜』にて日本やアジアを意識した曲世界に挑んだのち、MMG時代の曲を中心とする10年間の活動のベストアルバム『DECADE』でもって終了する。以後はZABADAK吉良知彦ひとりのユニットとなり、上野洋子は別の音楽性を追求してゆくこととなる。

 繁栄の幻想に半睡半醒でまどろんでいた国内状況も、いよいよ本格的に動きはじめる。バブル崩壊や93年政変を期に、90年代というつるべ落としの変化は、誰の目にもはっきりと映りだしていた。

<1>1986〜1990年 冷戦エアポケット下の様々なる意匠〜空想的な情景創作スタイルの模索と確立〜

 1986年というタイミングは、70年代後半から顕著に始まった高度消費社会化・情報化の波がひと巡りし、少なくともある程度以上都市化された情報環境に暮らす人々のライフスタイルや価値観の順応がさしあたり完了していたおり。ユーミンYMOBOOWYといったリーダー的アーティストやロック/ニューミュージック系人脈の音楽人たちに仕掛けられたニューアイドル群が旧来の歌謡界をすっかり模様替えさせ、カラフルな「80年代」がいよいよ爛熟してくると、もはや世代や趣味の垣根を越えて国民的関心を喚起できるポピュラー音楽シーンというものは存在しえなくなってくる。かくして時代遅れになって「ひょうきんベストテン」でギャグにされつくした各局ベストテン番組は相次いで終了、後は微細に「分衆」化した受け手の趣味・人格類型に応じてさらに多様な「自己表現」の差異を高度化していくしかない。
 そんな時代前提を負った「個性派」アーティストたちの一人として、この年、東芝EMIからZABADAKが、ビクターから新居昭乃が、デビューを果たす。
 PROJECT.K名義でライブハウス中心に活動しながらCM音楽等でメロディメーカーとして頭角をあらわし、まだCDの普及しきっていなかった86年中にミニアルバム『ZABADAK-I』をもって命名となったZABADAKの初期メンバーは、吉良知彦上野洋子と詩人の松田克志東芝EMI時代の初期に脱退)の三人。つづく87年にはミニアルバム『銀の三角』、およびミニアルバム2枚の収録曲をまとめCD化した『WATER GARDEN』、さらに初のフルアルバム『WELCOME TO ZABADAK』を立て続けにリリースする。日本歌謡的な湿度やアメリカンポップ的な単純明快さとはまるでかけ離れた、英国プログレッシブロックの影響色濃い彼岸的・文明批評的な楽曲世界は、マニアックな洋楽ファンなどに注目されつつあった。
 他方、新居昭乃の86年のデビュー曲は藤川桂介原作・いのまたむつみキャラクターデザインの長編ファンタジーOVAウィンダリア』の主題歌・挿入歌「約束」「美しい星」。OVAというメディアは、まさに『宇宙戦艦ヤマト』以来の一体感あるカルチャームーブメントとしての最初のアニメブームが収束し、ファンの市場がタコツボ化しはじめたこの時代のアニメシーンの特徴的なメディアといえる。アニソンと一般ポップスの間に音楽形式上の差異がなくなって久しく、OVAの版元でもあるレコード会社が新人や中堅以下の所属歌手にアニメの主題歌を担当させる売り出し方が当たり前になってきていた中での凡庸な一例だったが、当時はまだ珍しかった最初期の「和製ファンタジー」世界を彩ってみせた意味は決して小さくなかった。2曲を収録したデビューアルバム『懐かしい未来』のリリース以降、ソロアーティストとしての活動は長期にわたって途絶えるが、種ともこPSY・Sといった他アーティストのコーラスや楽曲提供などを手がける裏方ミュージシャンとして実力を発揮していく中で、その後も世界観の立ったファンタジーやSF系のアニメ作品の歌曲を数多く手がけていくことになるのである。

 そして翌87年には、TM NETWORK渡辺美里小比類巻かほるらの登場によって、不良性・反社会性を脱色しつつ、決して能天気なアイドルソングではないサウンドクオリティを持つ、「普通の若者」の心性を応援し素直に聴けるポピュラーロック路線を確立して飛ぶ鳥を落とす勢いにあったEPICソニーから、遊佐未森鈴木祥子が相次いでメジャーデビューする。
 同期で歳も一つ違いの遊佐と鈴木は仲が良かったが、両者の88年のデビューアルバムはともにまだプロデュース側がそれぞれの音楽性を見出しきれていない方向性模索傾向のもの。国立音大を卒業し、87年までに芽が出なければ田舎に帰る覚悟で音楽出版各方面にデモテープを送ったことがデビュー契機となった遊佐の『瞳水晶』は、遊佐の声という共通素材を、複数の楽曲提供者がそれぞれタイプの異なる詞曲世界で料理し一同に集めた競作集といった趣だ。
 対し、もともと原田真二ビートニクス、小泉今日子といったメインストリームのアーティストやアイドルのバックミュージシャンとしての下積みを経てデビューした鈴木の『VIRIDIAN』収録の多くの曲は、きわめて80年代中盤的な「明るく元気なガールポップ歌手」の典型イメージを踏まされている。そうした曲群のなか、後の展開に鑑みるとデビュー曲「夏はどこへ行った」のような対象を一歩離れた視点で静かに叙景しつつ物想いに耽る繊細な詞曲が「幻想浮遊系」としての彼女の作風の核として受け継がれていったと言えるだろう。

 幻想浮遊系アーティストとしての遊佐未森のイメージをほぼ決定づけたのが、89年発売のセカンドアルバム『空耳の丘』だ。当時アーノルド・シュワルツェネッガーが出演した日清カップヌードルのCM曲として現在に至るまで彼女の最も一般によく知られる曲でもある「地図をください」を含むこのアルバムは、ファーストの楽曲制作者のひとり外間隆史の全面的なプロデュースにより、「ぼく」を主語にするライトファンタジー的な詞、英国プログレを聞きやすくしたような軽快かつ温和な打ち込み主体の曲、ブックレットに創作短編童話を載せた特殊装幀等、きわめて周到な統一感によって造りこまれたものだった。
 同じく89年、MMGに移籍後第一弾のアルバムとして出たZABADAKの『飛行夢(そらとぶゆめ)』は、比較的暖かみのあるメロディラインや視覚的なイメージが湧きやすい詞等で、冷たい透明感をもつ上野洋子のハイトーンボイスが徐々にエモーショナルなポップ感を獲得してきたために相対的に遊佐未森の傾向に近づき、出自的には異なる両者のファンが明確に重なりはじめてきた作品と言える。
 鈴木祥子はセカンド『水の冠』を経て90年の『風の扉』になると、気丈なビート・サウンドは陰をひそめてスローバラードに乗せてリリカルな心象風景を静かに歌い上げるスタイルが定着してくる。その収録曲の中で遊佐未森がコーラスをつとめているが、このアルバムのパッケージもタイトル字体や写真の撮り方等、非常に遊佐の『空耳の丘』や同傾向のサードアルバム『ハルモニオデオン』に酷似しており、プロデュース側が両者を同系統のアーティストとして売り出そうとしていたであろうことがうかがえる。

 この時期の各アーティストの曲群の中で特徴的なのは、チェルノブイリ事故等での地球環境問題への関心や、湾岸戦争勃発を受けての終末感が高まっていたおりであったため、そうした大問題を憂う楽曲が目立ったことである。比較的ガールポップ傾向の強かった新居の「美しい星」や鈴木の「愛はいつも」はそうした主題をかなり大上段に感傷的に、遊佐の「旅人」やZABADAKの「GOOD BYE EARTH」は静かに叙景的に歌われていたが、こうした問題意識へのコミットがファンタジーになってしまう状況には、まさにこの時代のこの国の、あまり当事者的切迫感のない擬似社会派的な雰囲気の訪れを見出すことができるのかもしれない。