暁のかたる・しす

文筆家/編集者・中川大地のはてなダイアリー移行ブログです。

<3>1993年〜1996年 「93年体制」の到来〜自己完結的世界の拡散・離脱・ルーツ探索〜

 「93年体制」というのは、やはり佐藤賢二が指摘した、ポストバブルの消費低迷で内に籠もって「癒し」を求めたりする辛気くさい風潮傾向のこと。先の見えない不景気に95年に立て続けに起きた阪神大震災オウム真理教のテロが拍車をかけ、人々の世紀末的な閉塞感がさらに煽られた。
 「89年体制」下でかつてのトレンディドラマに代わりヒットした純愛ドラマは、野島伸司などの登場で今度は極端な展開で人間関係をこじらせる悲喜劇を描くエキセントリックなサイコドラマなどに置き換わりはじめ、J-POP(という邦楽シーンの呼びならわし方自体もこの頃の登場である)のヒットチャートはどきつい単調なユーロビートでムリヤリ現実遮断して盛り上がるかのような小室系のアーティストたちに占められる。
 もはや諸文化が世代や階層を超越するオーラを失い、メインもサブもなく単に多様化した消費財のひとつとしてしか扱われえなくなるなかで人々の趣味はますますタコツボ化、一定の嗜好傾向を「〜系」と横並びに括って他者や自分を微細なカタログ枠組みに分類する手つきそのものも、この体制下の産物だ。

 まさに今そういう手つきにおいて「幻想浮遊系」と命名し括っている遊佐・鈴木・ZABADAKらがこの時期に一斉に音楽的な変化を試みているのも、おのずとそうしたマーケティング的なラベリングを強いる「93年体制」を息苦しく感ずる意志が、彼女たち自身の転機として生まれたからであろうか。
 遊佐未森の93年のアルバム『momoism』はほとんどの詞曲を遊佐自身が創り、それまでの空想ファンタジー的なソフト・ロックから、動植物や風景や童話に材を採って心情をつづる欧風の花鳥風月詩のような作風に一変。つづく94年にもアイルランドのNight Noiseをバックに迎え、同様の題材傾向をアイリッシュサウンドに乗せたミニアルバム『水色』を発売し、従来作のファンを大いに戸惑わせる。
 そうした実験的模索の経たのちの『アルヒハレノヒ』は、打ち込み主体の躍動的なソフト・ロックに再度戻りながらも南国楽園的な雰囲気やアンビエント調の要素を取り入れて確かに初期とははっきり異なる趣向を打ち出し、確かに当時の派手なプロモーションのアオリ通りに「遊佐未森、新境地」をみせた。
 鈴木祥子もまた同じ年、自身の音楽的ルーツとして愛してきた60〜70年代のアメリカン・オールディーズに回帰するかのように、バート・バカラックの楽曲をカバーしたミニアルバム『SHOKO SUZUKI SINGS BACHARACH & DAVID』をリリース。翌95年には『SNAPSHOTS』でがらりとコケティッシュなロックシンガーに化けてみせ、もはや「幻想浮遊系」とは呼びづらい赤裸々な心情表出を前面に出してくる。
 さらに翌96年の遊佐のアルバム『アカシア』では、スピッツの「野生のチューリップ」をカバーするなど、「普通のJ-POPアーティスト」への接近はますます著しくなった。

 一方で「のれんわけ」後のZABADAKは、吉良知彦が毎回ゲストアーティストとのセッションでアルバム制作をするユニットとなる。新居昭乃も参加した94年の『音』、全アルバム中最もビートロック・テイストの濃い95年の『SOMETHING IN THE AIR』、宮沢賢治の童話をモチーフにした96年の『光降る朝』と、様々な実験を試みつつ全体的にはロック色の強い音楽傾向に向かっていったと言える。
 反対に上野洋子はヨーロッパ古楽ブルガリアンヴォイスなどの民族音楽によりコアに傾倒してゆく。ZABADAK脱退直後の93年の『VOICES』は、意味のある詞を排除してポップに背を向け、多重録音コーラスによるボイスパフォーマンスの可能性を追求する実験音楽といった風合いのアルバムだった。また、95年には同様の関心をもつミュージシャンたちと意気投合したコンセプト・ユニットVita Novaに参加し「古楽ポップ」なる表現に挑む。このユニットで同時リリースされた複数のアルバムのうち、創作民謡集とでもいうべき『Laulu』には遊佐未森も参加、珍しい遊佐と上野の共演も実現している。

 こうして、それぞれの路線転換により、90年代中盤にはもはや求心力あるポップな「幻想浮遊系」のコアはほとんど解体しつつあったと言え、筆者を含め彼らの音楽を同傾向の興味で聴いていた少なからぬファンが脱落していったのであった。