暁のかたる・しす

文筆家/編集者・中川大地のはてなダイアリー移行ブログです。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』感想

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

ご恵贈いただいていた國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』をようやく読めた。過去2回ほどお話しさせていただいた機会に感じていた主張信条の共通性がはっきりとわかって、同じ山に別ルートから上ろうとしている感覚に、通読中ずっと勇気づけられ通しでした。

特に、狩猟採集の遊動生活が生物としての人間のプリセット状態だったという人類学の知見に立脚しつつ「暇と退屈の系譜学」的説明を試みる第二章の世界観は、元より共通認識なので激しく同意というほかない。ただ、そこからの論構築展開というか「わかり方」の作法の違いが、さらに刺激的。
自分なんかが慣れてる思考法だと、では住革命後の人々は暇を処理するためにどんな生活様式や文化産物を生まれたのか、そこに貫かれる機能的本質は…というかたちで、アウトプットを経由しての説明原理を求めるのだけど、あくまで内的省察を突き詰めていく哲学の接近法の凄みを、改めて思い知らされた。

第三章「経済史」から第四章「疎外論」にかけての展開も、いちいち膝を打ちつつ、自然状態論の理解の仕方に蒙を啓かれる。なるほど、ルソー〜マルクスが到底実態に即しているとは思えない人間の「自然状態」をあんなふうに仮構したのは、恣意的な「本来性」への執着を廃するためだったのか……と。
このへん僕自身の問題意識としては、そんな観念的な「自然状態」の考え方は不自然だから、むしろ実証的な人類学や生物学の知見によって更新することによって、西洋近代がしばしばムチャな理想主義的状態を「本来」だと錯覚するのを正すべきだろうという思い方をしていた。その理路の違いが面白かった。

そして「本来性なき疎外論」の正統に立ち戻れという立場から、本書の後半ではユクスキュルの「環世界」概念に立ち戻ることによってハイデッガーの退屈論を批判的に乗り越えて「第二形式の退屈」を、あくまで生物の延長としての人間らしい生のデフォルト状態として再発見する論理の見事さ。
あくまでも西洋哲学プロパーの正統な思考法に立脚しながら、どこかで人間を特権化する思考が、最後の最後でいつも人々を不幸にする結論を招いてしまう西洋哲学の習い性的な態度をキッチリ炙り出して明快に批判し、小気味良くタンカを切りながら塗り替えていくキレの良さが痛快。
 若い日にコロラドで「自分のフィロソフィーをつくってるところだ」とホームステイ先のクリスチャンに言ったという著者が、「人間は考えてばかりでは生きていけない」と、伝統的なフィロソフィア(知を愛する)の態度の特権化を「倫理学」として相対化する地点に辿り着いたことは非常に重要だと思う。

あと伝わってくるのは、そうした根底的な西洋哲学批判・人間中心主義批判のコンセプトが、いつの間にか消費社会の現状肯定として受容されていったニューアカから近年のオタク論やクールジャパン論に至る日本の「現代思想」の轍をいかに踏まないようにするかという意志性。
その点は特に著者が本書を含め普段から強調している「消費」と「浪費」の峻別という、ボードリヤールの本義に戻れという主張に集約されるのだけど、本書の問題意識で言及されてもおかしくなかったバタイユの蕩尽論やホイジンガ、カイヨワの遊戯論が選択されなかったことにも結構意味を感じる。
あのあたりの祝祭や遊戯を消費社会に結びつけて持ち出す手つきの安易さから、1980年代くささというか、日本的「現代思想」の頽廃が始まっちゃった感があるので…。そのあたり、こちらもゲーム論やる上で、ゆめゆめ気をつけねばと思わされもしたのでした。

おそらくそこは、こちらが相互補完的にリニューアルを図らなければならないところなのだろうと、決意を新たにしますた。