暁のかたる・しす

文筆家/編集者・中川大地のはてなダイアリー移行ブログです。

ドラマ版『火垂るの墓』を観た

qyl010212005-11-03

 清太と節子を追い出すオバさん側の立場から描くという、時代が一回転した00年代ならではの視点が注目だった11/1のドラマ版。土曜9時枠の『女王の教室』に『野ブタ。をプロデュース』といった今時リアリズムを踏まえたうえで前向きなメッセージ性を持たせた最近の連ドラの挑戦が面白い日テレだけに、一応チェックしてみた感じだったけれど、案の定まあ、かなーりビミョウな感想を持たされました。

 まるでアニメから抜け出てきたような清太&節子の神懸かり的な演技や、『キッズウォー井上真央&『女王の教室』ひかる役だった福田麻由子ちゃん姉妹への作品とは無関係な萌え感情で、とりあえず動物的な眼福は確保できたのは良かったのだけれど(笑)、松嶋菜々子演ずる久子オバさんの視点が、戦争をよりリアルに捉えて原作やアニメ版の作品性を深める方向にはたらいていたかというと、かなり疑問。

 この視点立て、一見「戦争という極限状態では人間をひどく残酷な選択へと追いやる」という戦争の悲惨さと綺麗事では済まない人間性の真実を描き、被害者意識一辺倒に浸れる国民的泣きサプリメントと化したアニメ版における兄妹の儚い美悲劇を相対化しているようにみえる。……が、久子の人物像を、海軍大佐の息子として軍国日本の勝利を素朴に信ずる清太への告発者として設定したことによって、ひたすら「戦争」をとらえる観念が戦後的で小賢しいものに墜ちてしまったきらいあり。
 いやまあ、冒頭での、エリート将校としての崇高な使命感をもって戦地に向かう清太父と、庶民として赤紙招集された久子夫との対照的な出征風景の描写とか、複眼的な構成や両者の意識の葛藤とかは非常によくできていたと思うのだけど、やはり松嶋菜々子の責任かなあ。久子の態度が中途半端に物わかりよさげで、決然としすぎなためか。「生きるためには仕方ない、みんな必死だったんだ」という描写が、やむにやまれぬ悲哀ややりきれなさというよりは、「あちらも立ててこちらも立てる」という価値相対主義的な目配りのエクスキューズにしか見えなくなってしまってたわけですわ。要するには、『CASSHERN』とか『ガンダムSEED』。

 結局のところそれって、戦争がもたらす本当の人間の醜さや酷薄さを、ますます直視できなくなっていってるだけじゃねえのか、って。清太や節子をいびり出してしまうオバさんさえ、戦後的な「生」を至上視する価値観で了解可能なドラマの側に取り込んで「他者」性をはぎ取ってしまうあたり、アニメ版よりもさらにいっそう偽善の度合が高まってしまったんじゃないかと思う。
(たとえばこれがもう20〜30年前の邦画なら、あんな綺麗な後家さんが食い詰めたら子供たち喰わせるためにヤミ屋や農家のオヤジに抱かれるor言い寄られるくらいのエグいエピソードは当たり前に入ってきそうなんだけど……)

 あと、清太に向かって「これが戦争よ!」も思いっきり萎えたなあ。お前はホ・ヨンファかっつの。
 とまれ、戦後60周年というタイミングの戦争表現が、福井晴敏的−こうの史代的な磁場の中に収斂されていくという、『TONE』2号に書いた特集記事(http://d.hatena.ne.jp/qyl01021/20050702)での示唆に沿った事例がまたひとつ、ということか。

 とはいいながら、アニメ版の兄妹のリリカルなロマンチシズムを高度に再現しつつ、「セカイ系」にも通じるその二人の世界だけでの閉塞を、上記のような限界を持ちつつも周囲の人間関係の中で一応は相対化してみせた作劇は、それなりに評価すべき点だと思います。家の雨漏りがらみのエピソードとか、細部のドラマ演出は秀逸だったし。
 個人的には、清太と井上真央ちゃんの交歓をもうちょっと淡い恋ってレベルまで突っ込むことで、さらに豊かになったんではないかなあ、というのが惜しまれるところ。