暁のかたる・しす

文筆家/編集者・中川大地のはてなダイアリー移行ブログです。

男には、つかなきゃいかん嘘もある

http://d.hatena.ne.jp/narko/comment?date=20041010#cのコメント欄での『木更津キャッツアイ』の表現についてのやりとりに関して。

# gaikichi 『(略)クドカンだとマンガ的デフォルメの疾走感が強い余りそこが弱い感じが(確かにぶっさんが一人でオジーの地蔵に向き合う場面とかは良いが…)。
本物の体育会系やヤンキーは、案外と脱力もしてます。クドカンのノリはむしろそういう本物を疎外しちゃわないかなあ、ってのは考えすぎか、っていうか、今の体育会系やヤンキーなら、もっと割り切り良いかのかも知れませんが?』 (2004/10/11 20:13)
# bakuhatugoro 『俺も、クドカンの男の描き方は、先回りエクスキューズとしてのディフォルメやギャグがそうにもまず気になってしまう。というか、本物ははじめから客層じゃないしね(略)。フラットに苦手分野を克服しようって心意気は全然OKなんだけど、彼に限らず、最近の文系の人によるヤンキーの押さえ方には、どうにも無害化したアリバイ作りの匂いを嗅いでしまいます。むしろ、克服しがたいもの、距離の埋まらない同席しがたいものという認識をキッチリやることの方が、他者への対し方として誠実なんじゃないかなと思う。』 (2004/10/12 01:29)

2人とも、それは違うのだ。
narkoさんの返信で答えは出てると思いますが、基本的にはあのノリは女子への気配りなんだって。たとえば一回男との関係で疎外されたオンナノコの傷つき方には想像以上のケースだってあるわけで、かといってボーイスラブ系に走ったりキャリアで自己実現する道も容易ではない普通のコにナマモン見せて受け入れろじゃ往々にして済まなかろう。
そのあたりで男の生身を隠すでもなく、赤裸々に脅かすでもないようオブラートに包むあの作品の調停加減の妙は、俺ら自身の作法にとっても見習うべきとこ多分にあると思うぜ。それはそれで男ってもんが果たさなければいけない普遍的な役回りの一部ではあるんじゃないかって。そのへんのメンタリティの劇化が、まさに山田玲司の『Bバージン』だったりするわけだけど。
まあ、最後の最後には克服しがたい異物同士がガチンコで打算づくのギブアンドテイクに直面するのはどうしたって受け入れなきゃいけないけど、皆が皆、いきなりそこに行けるわけじゃない。
そんな観点から、クドカン周辺の役割をもうちょい理解してみるべき。


……ハイ、先日の日記の極私的な個別例の思いっきり引きずりで失礼。
しょせん人の認識なんてそんなとこが限界だな…。