暁のかたる・しす

文筆家/編集者・中川大地のはてなダイアリー移行ブログです。

はじめてみます

 書くの遅いしめんどくさいし、続くはずはないんですが、最近人様のコメント欄に長々書くことが多くなってしまったので、主に脱線や立ち入ったコメントになる場合用にホームを設けておきます。

 というわけでid:narko:20040920のコメント欄で、オザケンの「愛し愛されて生きるのさ」がCMで流れていたかどで喪失感を伴う狂おしい郷愁の話があったのですが、自分の場合はシュガーベイブの『SONGS』を5年くらい前に初めて聴いたときにそんな気になったかもしれない。(だから「ダウンタウン」のカバーが流れてる車のCMの方でも、結構ムネがざわつきます)

 これの場合は「もう会えない友達の声を聞いた」というよりは「ずっと空気のように触れてきた誰かはすでにここにはいない幻だった」と知らされた感覚。記憶の中に刹那としてあったかどうかも疑わしい場所なのに、そこの匂いだけは覚えているような気がしてならない絶対的な孤絶感というか……。
 今とあまりにも違いすぎる大貫妙子の歌のせいかな。はっぴいえんどや『ロンバケ』の大滝詠一などにはそういう感覚は一切ないんですけどね。

 で、「愛し愛されて生きるのさ」について思うのは、その種の「絶対に戻れない刹那」の感覚があるからこそ、それをオザケンが自分の歌の中で永遠化しようとしたんじゃないかということ。ピチカートの「陽の当たる大通り」ほかの楽曲もわざわざ「死」を引っ張り出してきて刹那な体験の永遠化を図っていて、彼らのその動機は昔からしこりのように気になってはいました。その点では決してただの懐メロとして接しているわけではないので、narkoさんの感覚もワンクッションはさんだかたちでなら理解できる気がする。

 …にしても自分の場合、いちばん中心的に聴いてきたのが遊佐未森とかZABADAKだったので、最初の最初から超俗的にツクリこまれた郷愁やイノセンスの層(「青き清浄の地」?)ががっちり固められてしまったおかげで、渋谷系アーティストたちが現実の儚さと隣り合わせで人目を気にしながらこっそり願う程度の永遠化衝動にはそんなには揺れなくなったのかも。ついでにこのへんの聴き手は恋愛プレッシャーからの逃げ方も最大限であろう(笑)
 遊佐とかはどんなにファンが離れようと、「もうやめてくれ!」というくらいに(外から見れば)同じノリで歌い続けてるからなあ。いちばん現実離れした存在が、実はいちばん現実的な強度を獲得するのかもしれん、ということで。